NUMERO DEUX SPECIAL 018
NUMERO DEUX SPECIAL 018 "FRENCH in SAPPORO"
Interview with Ngano Yoshihiro
永野善広はフランス語スクール「オブジェクティフ」の主催者であり、過去にはフランスの映画イベント、現在では ラジオ番組「サヴァ・サヴァ・フレンチ」(三角山放送局)でフレンチ・ミュージックを紹介。そして、年一回のペースで次回は9/17(日)の「ゲンズブールナイト」の重要なディレクションをおこなっている。フランスに渡るきっかけ、そしてゴダール、ゲンズブールなどについてインタビューしてみた。そして、お勧めのフレンチ・ディスクを3枚紹介してもらった。
INTERVIEW WITH YOSHIHIRO NAGANO
永野善広インタビュー@オブジエクティフ
by Shinichi Ishikawa(NUMERO DEUX)
フランスへ渡ったきっかけは?いっぱいあるんです。その時々にね。 僕は今51歳なんですが、フランスに行ったのは23歳の時です。かなり時間がたってますが。なんというか、もともと読書が好きで、文学なんですがヌーボルマンというのが登場してきて、それがなんとなく自分にフィットしたと思って、それは最初翻訳で読んだのですけど、原書で読みたいなぁという気持ちまでさせたんですよね。それでフランス語を本格的にやろうと思って、東京のアテネ・フランセというスクールに通ったのです。そういう訳なので最初はフランスに行く気は全然なくて、でもそのうち行ってみようかなと(笑)。それで留学最初1年の予定が、3年ぐらいいましてね。要するにハマってしまって。
なぜですか?日本からはなれているということは、日本のしがらみから離れることですよね。そして、フランスでわけのわからないままその国の習慣にはいって外人であるゆえの自由感を感じたんです。もちろん、外人であるゆえの不自由さもあるけど、一般的には23歳を超えると、就職をする訳ですが、そこで就職しないでフランスに行ってしまうと、年令とか全然関係なかったり、日本とは違う自由を感じたり、食べ物がおいしかったり、石造りの建物とか、映画で観たそのままみたとおりで、すべてが気に入ったわけではないけど、日本よりいいなぁと思った。
それに、ちいさい時から、知られたくないことまで聞かれるのはいやだね、というのがあって、わからないまま個人主義というのを感じていたかもしれない。幼稚園のころから、干渉されるのはやだなぁというのがあって(笑)。そうすると、日本の学校とか居心地が悪くて、ほとんど仲間からハジかれる。ハジかれるほうが楽だった。親の転勤が多くて、転校が多かったこともあると思いますが。なにやっててもいいじゃない、というのがあって。とにかく、干渉しないでくれ!と。外国人だと、自分のいいたくないことはガードできるし、相手も察知したらそういう話はしないし。
その時23歳ということですが、日本で普通に就職する気はなかったのですか?
そうですね。僕たちの世代からフリーターというのは始まったのかもしれない。まわりも就職した人もいたし、僕みたくフリーターもいたから。生きるには、正社員でも、アルバイトでもいいのではという雰囲気はあった。景気も良かった。高度成長期でしたから。その時は正社員になって保険とか厚生年金とか有利とかは、あまり考えていなかった(笑)。それとね、性格的に30歳まではフリーがいいじゃないかと思っていた(笑)。大袈裟にいうと、会社に入るとすると、それに取り込まれていく自分も少し思い浮かぶし、別に大きなところで働く必要は感じなかった。
僕は魚座でo型なので(笑)、 好きなことをやっていれば、それがいつか実になってバックしてくるだろう、というのがあって。凄く楽観的。でも、フランスに行くときは悲観的でね。とにかくお金がないから、どっかで死ぬんじゃないか、と考えたり。1年の予定だったから、その分の生活費を持っていきました。それで帰国の日が近づいてくると困ってしまって。なぜかというと、まず語学能力が目標までいってなくてね。
で、仕事を探すことになって、でも外国人だから、大変で。フランス人の友人から、バイトに誘われて面接にいったけど、「おまえは日本人だからだめだ」といわれたりね。でも、その後、日本料理も出すというふれこみの、ベトナム料理店に働くことになって、僕は一度働くと長いので、結構やりました。学校にも行っていたので大変だった。最初は皿洗いでしたけど、そのうち、前菜を作ったりもしましたね。それまで、住居は安ホテルだったけど、そこが水道工事をやるとかで、働き口が決まったこともあって、当時先端のアパートに引っ越しましたね、そこがオール電化住宅(笑)で。料理も電気で、これは高くつくなぁーと思ってキャンピング・ガスとフライパンで料理してました。だんだんジリ貧になってきて、いっつも小麦粉でクレープみたいのを食べていたな。
その時働いた料理店ですが、そこのオーナーに、お前も料理作れ、といわれて、そこの日本料理というのはいい加減で、ベトナム料理を日本料理です、と言って出すようなところだったので、断わって辞めてしまいました。
フランスでの暇な時間の過ごしかたは?
ほとんど、アルジェリア人が経営していたカフェにいた。そこにはヒッピーふうの人達が集まっていて、みんなで分かちあうという感じで親切だった。そのころは70年代ということでヒッピー文化というのがあったから、そういう人達が集まる家とかもあってね、旅人の宿がわりだったり、僕も1回ぐらいお世話になりました。
以前、近代美術館で、ヌーベルヴァーグについてのレクチヤーもおこないましたね。逆質問的にいうと、今、若い人にヌーベルヴァーグ系の映画がとても新鮮なものとして、感じられているのは、どういう部分なのか?、と感じる。その感覚は僕にはないものだから。僕もゴダールの映画をわけもわからず観ていた時期があって、ゴダールの映画をみれば、なにか自分でもゴダールと同じ意識がもてるのではないか、と思っていた時もあった。でも、わかっているかどうかは自分でもわからない(笑)。ハッキリいって「太陽がいっぱい」のほうがおもしろいと思う。でも、ゴダールは全然違う。ゴダールの映画を語ることによって、自分のインテリジェンスをみせていたのは青春時代にはあった。
でもね、ゴダールのような、いわゆるアート系映画ばかり観て、それでそういうのが好きな仲間とばかり話していると、自分の考え方はちいさくなるような気がした。 そういう輪の中ではひとことで会話が成立してしまうから、普通の人と会話ができなくなってしまって、それはマズイかな、と思って。ハリウッド映画のほうが観ている人が多いから、単にコミニュケーションをとる場合では、そういう映画の話しをするほうが楽しい。それに自分の頭がアート映画ばっかりになるのが怖くなったのもある。それで、エンターティメントの映画も観に行くようになった。バランスがとりたくて。それは40代になってからだけど。
ゴダールの「勝手にしやがれ」は、もともとゴダールがハリウッドのギャング映画が好きで作った作品ですよね。それをゴダールが独自のタッチに作って、それが神話になった。日本人はトリフォー派が多いですよね。それは物語があるからだと思う。それにゴダールの映画は政治的だと思うし、それにフランスに住んでいたときも、「ゴダールの映画いいよね」というとそっぽをむかれたりした。僕の住んでいた街にはゴダールの映画はこなかったし。来たとしても学生のシネクラブの自主上映会とかね。ゴダールの活きる街というのは「パリ、東京、ニューヨーク」といわれていた。インテリジェンスの高い都会の映画という感じでした。その意図はゴダール自身のなかでもあったと思う。
ゲンズブールについて
ゲンズブールが日本でこれほど人気が出るとは思わなかった。僕がフランスにいたときから、その名は聞いていたし、変わった人でテレビに出ていてもタバコを吸っていたりね。普通のポップシンガーとは違って変わり者で、五月革命とか通過した人だと思うし、アンチっぽいキャラクターですよね。でも、彼はふつうのシャンソンも歌っている訳で、僕の好きな「枯葉の想い出」というのがあって、それは「枯葉」の詩をもじっていて、凄い才能があるなぁ、と感じた。それに、彼のまわりにいる人達も魅力的ですよね。それはなにか新しいことをしたい、つっぱりたい、という感覚だと思う。ボリス・ヴィアンにも通じる魅力があった。ゲンズブールナイトは年に一回の行事ですね。いろいろ考えますが、広い層に受けいれられるものにしたいです。札幌にはセンスの良い人は多いとおもうし、そういう人がもっと札幌を盛り上げていって欲しいですね。
2000.08.29(tue) 18:00-19:00 オブジェクティフにて
永野善広のフレンチ・ディスク×3
brigitte Bardot/best of BBブリジット・バルドー ゲンスブールの元祖恋人であるBB。はるか昔の高校時代、 学校をサボって、BBの映画を見に行きました。やっぱ、BBの ジュテーム・モワ・ノンプリュが最高ダ。
brigitte fontaine / les palaces
ブリジット・フォンテーヌ フォンテーヌを知らなくちゃ、フレンチ狂ではない。 パリで見た彼女のコンサートは涙がでるくらいブラボー。
michel polnareff / LES PREMIERES ANNEES
ミッシェル・ポルナレフ 元祖ビジュアル系の最高峰。この3枚組アルバムを聞けば、 誰もが彼の声にいかれてしまう。今の時代を先取りした フレンチ・ボーイ。
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