平成28年度室蘭工業大学市民懇談会 (2)
本委員となった僕が会議に出席して自分の考えたことを書いてみます。
本記事は全3回の2つめの記事になります。
前の記事はこちらです。
大学生の75%
学生の地域につながる活動「室蘭ほんまつり」について、同大学の太田 哲平から発表があった。これは学生主体の取り組みとして「室蘭本まつり」という、古本を集めて販売するという企画である。その中では札幌の「北海道ブックフェス2016」との連携をこなったということ。文化的なつながりや、ひろがりのある良い企画である。
活動の説明の前に、本大学の学生についての説明があった。それがなかなか興味深かったので本記事はそれはついて書く。大学が学生に実施しているアンケートで「入学してよかったと思うか」という質問に答えが「良かった」というのは「25%」という答えだった。
つまり「75%」の学生が「良くない」ということ。これは驚いた。良いや悪いは個人的な問題であるが、比率は5割も超えれば、それはもはや個人的だけでは片付けられない。では、これはど解釈するべきか。まず、2つ考えられる。ひとつは、本大学ははじまった時から「良くない」と思われる大学だったのか、ふたつは今「良くない」と思われる大学になったのか。
僕は後者ではないかな、と考える。前者であればそれは大学そのものの欠陥であり、それについて僕はここで書く知識はない。でも、歴史ある国立大学にそれは無いだろう。
大学そのもものは、変わっていない中で、学生の75%が「良くない」と今の時代に感じているということを僕は仮定する。変わったのは時代(社会)なのだ。
ここで、自分の大学生だった「時代」。20年前以上の自分の話をすれば、大学に入った時は嬉しかった。その理由はとりあえず4年は社会人にならなくてすむし、学生という便利な地位を得ることができた。住まいも実家だったので暮らしという部分は高校の延長に近い感覚だったと思う。高校の頃から、バイトを少しやっていたので、実家で暮らしながらバイト代で好きなCDを買ったり、ライブに行ければ楽しいな、という感覚である。
今から、考えると実にお気楽でお恥ずかしい。「学ぶ」という観点が抜けている。その点については、講義は出席率は良かったと思う。でも、その姿勢は高校の時と同じくらい。ゼミも入らず、卒論も書かなかった。それで普通に卒業できた。正直、もっと勉強すれば良かったなと思う。
大学生活は高校より自由度が高かった。講義を自分で選択して、自分の勝手な都合で欠席することもできた。図書館は大きくて便利だった。3年のほとんどの単位がとれたので、4年生の時は本当に時間があった。レコード屋に行ったり、フリーペーパーを作ったりして遊んでいた。そんな感じで僕は大学生活は楽しかった。もし、アンケートはあれば「良かった」と回答するだろう。
話を今の時代に戻そう。室蘭工大生の「75%」の入学に入って「良くない」をどう捉えればいいのだろうか。僕が考えるこの75%は、別に大学が「嫌い」という訳ではなくて「好き」とまではいえない、というニュアンスだと思うのだ。そこに今の時代に生きる学生の意識があると思う。学生の基本的意識は、僕の時代も今の学生時代も変わらないと思う。変わっていることは2017年の時代(社会)。だから、僕が今大学生だったら、アンケートの答は「良くない」と答える可能性は高い。
僕は「今の時代」の学生は大変だと思う。彼らは、インターネットで世界中の情報にアクセスできて、行動でできる、雇用流動性が高く、強度な自由恋愛であるという、極めて自由度の高い世の中に生きている。それはとても、大変なことだと思う。自由であるその苦労は計り知れない。自由はクリエテイティヴやアートと似ている。自由と真正面に向き合うのは本当にツライ。僕はいつも逃げたいくらいだ。僕の学生時代は逃げることができたのだ。「追いかける」携帯電話もインターネットも無かったのだから。
室蘭工大生のアンケートの75%の大学に入学して「良くなかった」は、僕は大学に対する文句というより時代に対してのものだと思う。そして、「良くない」は「良くなれる」というメッセージだと思う。そこに学生の真剣さがある。本当に室工大が「嫌い」だったら、「地域社会概論」のワークショップだって、「室蘭本まつり」だって、とても成立しないと思うのですよ。それらの紹介の中には、まじめに取り組む彼らにまじめさや熱意も伝わってきました。
3回めに続きます。
Text by
アート・メディアライター 石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)