新作映画「TOKYO!」とういう3名の監督によるオムニバス映画作品の1本にレオス・カラックスが参加している。この監督には思い入れのある人は多いと思う。紹介する「ポーラX」は前作「ポンヌフの恋人」(1991)年から、8年ぶりの作品ということで話題となった。僕も随分期待して上映館であったシアターキノに観に行った記憶がある。
「ポンヌフの恋人」までは、ボーイ・ミーツ・ガール的な、特殊な状況ながらも一種の普通の(庶民的な)な舞台であった。
対して「ポーラX」は、いきなり空爆のシーンから始まったと思えば、日光がまぶしい自然の中の立派なお城が出てきて主人公はそこに住む若くハンサムな新鋭ベストセラー作家。絵に描いたような育ちの良さそうな婚約者もいて、母親はカトリーヌ・ドヌーヴ。
前作の主人公が浮浪者ということを考えると、随分、エクセクゼクティブなお金持ちの世界で、カラックスも変ったのかな、と思う。
話しが進むと、主人公の姉と名乗る女性が突如、秘密裏に表れて、主人公はその女性と人生の奈落の底に落ちていくことになる。観ている一般庶民の僕は「なんで?なんで?」の世界。幸せで、なにも不足のない美男子の主人公は、ロクに証拠もない「姉」と名乗る女の口車になんとなくのせられ、フラリと家出。計画的にお金等も持ち出した様子もなく貧民街の安宿に泊まる。そこでの「姉」とのセックス。しまいにはテロリスト集団のアジトにお世話になったり…
そんなトチ狂ったような主人公を、相変らず映画知識をフル動員した大まじめな映像美で見せてくるので、クエスチョンマークの連続なのだけど、ここで気がつくのは「ああ、やっぱりカラックスだなぁ」ということ。
ひさびさになんとか撮れた映画だと思うのに、まったく妥協せず自分の撮りたい映画を撮る。ここには、世間や流行やスポンサーに配慮しようなんて気配りはまったくなし。映像にもたっぷりお金をかけて描く話は男の破滅。でも、カラックスはこの男に対して同情とか教訓とかはまったく残さない。恐らく可哀想だとも思ってはいないだろう。それは冷たい意味ではなくて、カラックスは主人公の行動に対して憧れのようなものを持っているように感じる。
破滅の美しさを心から確信を持って、ごく自然に描ける映画作家は今、世界にどれくらいるだろうか。なにかと表現についてうるさい世の中だけど、フィクションの映画の世界は限りなく自由であるべきではないだろうか。