本映画で、僕は一番印象に残っているのが、主人公夫妻の夫で元建築家である津端修一のもとで働いていた部下のコメントである。その内容は「なんでスローライフという方向にいってしまったんだろうね。ほかにも方法はあったと思うけど…」という内容を話していた。この人物は本作品で一番感情移入しやすい人である。「(津端修一が)勝手に職場に来なくなるので困った」という話も僕にはうなずけた。
本作に描かれた津端夫妻の生活は本当に素晴らしい。高齢で元気なのも、この生活スタイルが関連していると考えると、自分の生活に危機感も生まれてくる。
戦後、大きく新しい豊かな住宅地のグランドデザインを手がけ、それが意に反して結果的に「豊か」がすっぽり抜け落ちた時に、その地に家をかまえスローライフ決意したひとつの夫妻。正直「そこまでしないといけないのだろうか?」と感じる自分もいるのである。疑問が湧き出る。本作はどういう気分で鑑賞すればいいのだろう。多分、選択肢は2つ。自分に関係があるか、ないかでわけることである。
「ない」で考えると気持ちは楽になる。「あぁ、こういう人もいるんだ。こういう人生はいいな」で終わることができる。そして、変わらない日常に戻る。これはいい。「ある」と考えたときが苦しい。では、自分もこの夫妻を見習わないといけないのだろうか。スマートフォンを捨てて、劇中に出てきた黒電話にしないといけないのだろうか。ハガキでコミニュケーションしないといけないのか。一軒家をかまえ庭で100種類の植物を育てる。でも、TVはあってもいいのだな等と考える。これは息苦しい。つらい。
そして、この文章の最初に触れた、かつての部下の人のコメントを思い出すのである。「ほかの方法はなかったのか」。この夫妻は現代の特権階級である。誰よりも豊かな生活をしている。そして、誰もが真似のできない生活をしている。勤め人という立場で豊かな住宅地をデザインして、それができなかった時に津端修一は「自分の家」で理想の家をデザインし、豊かな生活の実践をはじめた。そして、それは誰もが羨む人生(フルーツ)となった。
しかし、同時にそれをドキュメンタリー映画の中に理想を眺める僕達はどうすればいいのだろう? 僕はここの少し突き放された気持ちになるのだ。この夫妻に続いて行動しないといけないのか。それは多分、僕には無理だと思う。僕ができるのは、この夫妻の物語を美しい理想と記憶にとどめながら「ほかの方法」を模索するぐらいである。津端夫妻の豊かで美しい生活を横目で嫉妬し「他の方法」も考えてよ、と思う弱い自分を確認するのである。
本作は現時点でシアターキノで延長上映中である。
Text by
アート・メディアライター 石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)