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NEWS No.17047「SAIF (札幌国際芸術祭) 端聡『液体は熱エネルギーにより気体となり、冷えて液体に戻る。そうあるべきだ。2017』」

2017.10.29

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札幌国際芸術祭 私的な感想ふたつめ
ひとつめはこれ → http://numerodeux.net/?p=17491

僕は飲めない。
「すすきの」という場所と芸術祭。

僕は札幌で生まれて育った。そして、お酒は飲めない。それでも「すすきの」という場所はこの「まち」の特性を考えた時、重要な場所だと思う。SAIF (札幌国際芸術祭)は、その名のとおり「札幌」の「お祭り」である。だから「まちのお祭り」でなければならない。まちの中にアートがなければならない。それが僕の持論なんだ。だから、芸術の森や、モエレ沼公園で優れたアート展示をおこなうだけでは、「芸術祭」としては足りないと思う。それだけでは「祭り」の非日常とはいえない。祭りとするなら、この「まち」がアートに「侵食」されることが必要なのだ。アートがまちから”にじみ”でることが。

端聡は札幌の代表的な現代美術作家。本芸術祭では、すすきのの雑居ビルの空き空間をつかって展示をおこなった。展示は2つの空間を使っている。入ってすぐの空間では、平面作品の展示がある。これは端聡という作家を理解するためのスタンダートな内容となっている。そして、奥にあるもうひとつの展示空間。そこに入ると、まるで最初の平面展示が優秀なイントロダクションだったように感じる。具体的には、暗闇の中におおがかりなインスタレーション作品が出現する。それは映画のように、または神話のように。

暗闇に照らされる水蒸気が吹きあがっている装置。僕はふとスチームサイバーを連想するが、それよりもストイックさを感じる。よく観察すると、水が蒸気となり再び水として循環していることがわかる。まるで永久期間のように。エネルギーを考えよう。僕達の生活はエネルギーを消費することで成立している。そして、すすきのはまさに巨大なエネルギーの消費装置だ考えることもできる。

世の中の大部分の私達は、エネルギーを消費することで生きてきた。しかし、消費だけをただ漫然と続けることは物理的にも、そして精神的にも限界がきている。しかし、エネルギー消費を拒否することはもちろんできない。私達のできることは、今までのように無頓着に消費することから少し進んで考えて行動すること。ちいさなエネルギーの節約、さまざまなエネルギー源の可能性。そんなことからやっていけばいい。大切なことは考えること。

本インスタレーション作品は、エネルギーを考える現代のアイコンだと思う。そして、すすきのという札幌のもっともコアな消費地で展示がおこなわれたことは、展示場所も含めた強力なファインアート作品だと僕は思った。そのまちの現実とリンクすること。それが僕は「まち」でおこなう芸術「祭」の大事なことだと考える。

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Text by  メディアリサーチャー石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)

 

NEWS

NEWS No.17046「SAIF (札幌国際芸術祭) 梅田哲也『わからないものたち』」

2017.10.21

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札幌国際芸術祭
私的な感想。デパートの残りにある記憶と作られた空間。
僕のみたいものがあった。

札幌国際芸術祭は、札幌市が主催する芸術祭である。今年で第二回目を迎えた。僕は札幌という都市で芸術祭をおこなのは難しいと思っていた。それはなぜだろう? 思いながら、うまく文章にできない。それを文章にしようと思う。札幌の中心部は、大通公園をはさんで、銀行や証券会社や商業施設や、北最大の繁華街すすきのにつながる。このあたりの文化的な施設としては、大通公園、札幌時計台ぐらいかなという感じがする。大通公園は通年さまざまな行事がおこなわれているが、アート表現とは少し違う感じがする。でも、大通周辺は、まさに札幌の中心であり、芸術祭をやるならこのエリアでやることが必須だと思う。一番人が集まり、流動性のあるところがいいだろう。

今回の芸術祭では、その部分が初回より強化されたのがとても良かった。札幌市の郊外には「モエレ沼公園」や「札幌芸術の森」といった、国内でも有数のアート施設がある。しかし、これらにいくらスペシャルな展示おこなっても「芸術祭」にはならない気がするのだ。美術施設ではない、場所でアート展示をする、というのは今ではありがちテーマではあるが、札幌という場所では特にその点を強く意識しないといけない。ないところに一定期間ある異空間が「祭り」だと思うから。

金市館という デパートが昔あった。過去形であって3年前にデパートという形態は閉店した。現在はパチンコ店であるが、1970年代からある札幌中心部にある代表するデパートのひとつであった。デパートといっても、丸井、三越のような、高級ブランドを取り扱い、というよりも庶民的で手頃な商品が集まったデパートであり「デパ地下」の食料品エリアも、日常の買物をするような品揃えであった。それでも8階建ての立派な建物であり、各階が「婦人ファッションのフロア」「インテリアのフロア」といったふうに、キチンと分けられていた。

8Fの特設会場では、よく「古本市」や「中古レコード市」が定期的におこなわれていたのでよく足を運んだ記憶がある。また、同じフロア常設は「フィンランドインフォメーション センター」というフィンランドを紹介しているコーナーがあって、これはとても文化的な香りのするとろこで、情報も更新されていてよく見た記憶がある。昔話をしすぎたかな。なにかがなくなっても記憶は残る。そこを僕は必要以上に大切には思わない。でも、自分を構成する一部にはなるのだ。

梅田哲也の作品「わからないものたち」は、この金市舘だった建物の現在は使っていないフロア7階300坪の空間を使った作品である。そこは、昔はたしか健康関連のフロアで、何度か行った記録がある。そして、現在。入ってみるとその面影は一切ない。すべては運び去られ、剥がされた。残るは骨組みだけの空間。あるのは「ここ」にあるとう地理的事実だけ。でも、アート作品になるのはその事実だけで十分だ。

がらんとしてむき出しの空間の中に、廃品や不思議な実験機器のようなオブジェがある。全体の空間がインスタレーションになっていて、まるで前衛的なSF映画のセットに迷い込んだ気分になる。現実に戻されるのは、窓からの風景。そこにはみたことのない札幌の空間がみえる。それはそうだ。このフロアがデパートの頃、窓から外を見た記憶はない。

僕はその時、札幌の中心部にいた。でも、そこはあまりに不思議な空間だった。都市の真ん中にある。なにも売っていない、サービスもない空間。想像力が楽しめるフロア。そして、窓から見えるいつも札幌。そうそう、僕がSAIF札幌国際芸術祭で見たかったのは、こういう作品なのです。

ishikawa
Text by  メディアリサーチャー石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)

 

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NEWS No.17045「室蘭民報 テキストを書くこと」

2017.10.15

室民

「室蘭民報」に僕が書いた原稿が掲載されました。
そのことと「文章を書く」こと。考える。

文(テキスト)はおもしろい。そして、人をまやかす。たとえ、結論が同じでも文体が異なると受け取り方も変わってくる。さらには文書ののっているメディア(媒体)からも変わってくる。新聞にのっている文、SNSにアップされた文、ポストイットに書かれた文章そして、今日書かれた文、1年前に書かれた文。僕が文について考えることを書いていこう。

まったく同じ「文」であっても、掲載された「媒体」や「時」によって変わってくる。そして、最終的にはその「文」を読んだ人間の感じ方でも変わるだ。そんなことを考えると、文章を書くのを難しくなってくる。文には、その文字そのものという「内面」と、どういった媒体(メディア)や時(タイミング)で出るかという「外面」の2つがあるのだ。「内面」と「外面」。まるで人間のようではないだろうか?

室蘭民報は、室蘭及びその周辺をカバーしている新聞。地元の話題を幅広くカバーしている。住んでいる人間には本当に身近なのニュースが掲載されるのでおもしろいし、外の人間にはそのまちの様子知るための信憑性の高い情報源だと思う。紙メディアの時代からある「新聞」というメディアは媒体が変わっても、ありつづけで欲しいと僕は思う。「昔からある」というのもメディアの重要な要素だ。

その中「忙中閑」というコラムがある。これは、新聞によくある社の人が書くコラム。朝日新聞なら「天声人語」と同じ種類のもの。「忙中閑」は年に1〜2回一般の原稿を募集することがある。それに応募したところ掲載された。

この原稿を作っている時「選ばれればいいな」と思った。そして「どうしたら選ばれるかな」と思った。そこで僕が考えるのは、最初に書いた「媒体」や「時」である。原稿は、その内容である「内面」は大切だ。同時に「どんなメディアに掲載されるのか?」「どんなタイミングで発表されるのか」という「外面」を考えるのも大事なのだ。そして、誰が読むかということ。

僕は文を書くとき「自分のいいたいこと」とにあまり集中しない。僕は「いつ」「何に」書くのことに一番集中する。

 

 

ishikawa
Text by  メディアリサーチャー石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)

 

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掲載原稿全文 室蘭民報 朝刊 2017.09.05
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題名:「誰のための早さ」 石川伸一

「早く、早く」。そんな声が聞こえてくる。誰の声かといえば、自分の声。それは口か
ら発せられたものではない。心から発せられた声なのだ?▼今は「早さ」の時代だ。例
えばインターネットで素早く注文して、できるだけ早く手元に欲しい。その他ことでも
、手続は早く進めて欲しい、結果は早く知りたい…▼早さを求め、同時に求められ、ス
トレスを感じてしまう。そんなことが日常となっている。きっと今の時代に生きている
誰もが感じていることではないか▼「早起きは三文の徳」「善は急げ」と早さに関する
格言は多い。その意義は現在も変わらない一面はある。しかし、今はこれに一考が必要
となっている▼現代では時には意識して「ゆっくり」を考えないといけない時代だと思
う。技術の発展はコンピューターの発明によって、人間の能力をはるかに超える早さが
可能になった▼それは昔を生きた人々の想像を超えたものになっている。私たちはいつ
のまにか機械から生まれた「早さ」のいいなりになって、窮屈になっていないか。つら
くなっていないか▼これからを豊かに生きていくには「早さ」だけを求めてはいけない
。「ゆっくり」でいいことも、みんなでわかり合うことが大切だと思う。(石)

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