家の中にダンボール箱がたまる。月に一回程度業者さんに引き取ってもらう。たまったそれらは、折りたたんで目立たないところにしまっておく。僕が欲しかったのはダンボールではない。ネットで注文して、ダンボールで梱包された商品が欲しかったのだ。だから、ダンボールの中のアイテムを取り出したら、宛先シールとビニールを剥ぎ取り、ダンボール素早く折りたたむ。業者に渡すことがリサイクルだと信じる。
ダンボールがまだ一般的では無い時代は、運送には木箱が使われていたそうだ。僕はその点でリアルな体験はない。古い映画で木箱に入った荷物をみたことはある。その中には、りんご木箱もあったと思う。僕にとってりんごの木箱は、歴史の中の出来事だ。
吉野隆幸は、1957年生まれの北海道の美術作家。流木等の木材をつかったオブジェやインスタレーション作品を制作・発表している。本作はりんごの入っていた古い木箱を素材にして、神を具現化した作品となっている。りんご箱と神、というと最初は僕にはさっぱりわからなかった。神も未知だが、りんご箱も同じくらいわからない。
想像してみる。りんご箱がダンボールの先代だとする。僕はネットで注文したものが木箱に運ばれてくるというのが大変イメージしづらい。受け取って運ぶのはすごく大変そうだし、簡単にたたむこともできない。いや、たたんでいいのかもわからない。無視できない存在感がある。昔はこの「たためない箱」が必要なもの(りんご)等をいれて全国に運ばれていた。木箱には「運ぶ」というたしかな、存在感があったのだと思う。
りんご木箱が運送に活躍して時代は、当然インターネットもなかった。電話や手紙によって、木箱は日本全国をまわったいたのだろう。クリックひとつのネット注文の実体感のなさとダンボールの存在感の薄さは「運送」という行為を、無視している訳ではないけど、感じないものにしてしまう。
では、本作に表現される神についてはどうだろうか。僕は神はいるとは思ってはいる。自分にとって神とは科学や理屈を超えた存在。信じたほうが人生を生きやすい。なぜかって?人生の不条理を受け入れやすいのだ。ロジックだけで人生を切り抜けるには人生は複雑すぎる。では、りんごの木箱は?これに感じるのは過去のツールであり「思い出すもの」である。そう、りんご木箱自体は過去に存在した道具にすぎないが、それを「運送」という行為を思考させるオブジェになりうる。ただ、それだけの存在では感じ取るのは難しい。ただの箱なのだから。
吉野隆幸は、本作でりんご木箱を素材に使うことによって「過去」と「運送(はこぶ・はこばれること」を「神の目」によって考えさせるアート作品をつくりあげた。ワンクリックなネット時代が進めば進むほど、僕達は自分おこなう行動の意味性を考えなくなっていく。残るは即物的な欲求の満足だけである。しかし、それだけでは砂糖水を飲み続けるようなものである。喉は乾き、体にも悪い。本作のような記憶の可視化と思考をうながす作品は、人が生きやすい行動のための大切なヒントをくれると思う。
Text by
アート・メディアライター 石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)
吉野隆幸 12メートルの貧乏紙・貧乏神
500m 美術館vol.22「北の脈々 -North Line2-」」
会期:2017年4月15日(土)~7月5日(水)
会場:札幌大通地下ギャラリー 500m美術館(札幌市営地下鉄大通駅内)