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NEWS No.16050「500m美術館vol.19 いつかきたみち、こどもみち『東方 悠平/泳げ鮭玉くん』」

2016.09.11

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NUMERO DEUX NEWS 16050 札幌のアートなニュース。

鮭の記憶、文化の記録
思い出す効果。

実家の食事の話。まず、前提として僕は北海道生まれ、育ちである。いわゆる「道産子」。母の作る食事の材料で魚というジャンルで絞るのなら、一番思い浮かぶのは「鮭」である。とにかく鮭。料理例としては、シンプルに焼き魚、お刺身、フライにしてタルタルソースをたっぷり、そして石狩汁(鮭をメイン具材にした汁物)であった。そして、鮭という魚について、学校での何の授業か雑談だった忘れてしまったが、鮭が故郷の川に帰って産卵する性質と、川を飛び上がるイメージが頭に残っている。現在、実家を出た自分は鮭を食べる機会は少なくなった。そのためか、この魚について考えることは少ない。

東方悠平は美術作家。1982年生まれ、北海道出身。筑波大学大学院総合造形コース修了。見慣れたイメージをモチーフに、それぞれの意味や文脈を、ユーモアを交えて組み変えるような作品やプロジェクト、ワークショップ等を数多く手掛けている。2010年に「第13回岡本太郎現代芸術賞展」、2013年に個展「死なないM浦Y一郎」(Art Center Ongoing)、2014年「てんぐバックスカフェ」(灘手AIR2013)など。

本展示では、魚がバスケットゴールを飛び越えている。道ゆく人がこれを見る。多分、道産子ならこの魚が「鮭」だとわかるだろう。なぜか?そばにバスケットゴールがあるから。最初に書いた、鮭の飛び上がるイメージがポップに表現されている。非現実であるがゆえに自分の頭が動き、鮮明に思い出す効果があるのか。僕はもう実家には住んでいない。鮭は今でも、時々食べる。鮭について過去の食卓を思い出す記憶。北海道の家庭にならぶ代表的な食べ物としての記録。本作品はその記念碑として在るのだと思う。そして、ポップなところに時間を超える魅力がある。僕はひさびさに飛び上がるこの魚について考えた。

Text by
アート・メディアライター 石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)

500m美術館vol.19 いつかきたみち、こどもみち
『東方 悠平/泳げ鮭玉くん』

会期 : 2016年7月9日(土)~2016年10月12日(水)
会場:札幌大通地下ギャラリー 500m美術館

 

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NEWS No.16049「小林俊哉個展「何も語らざるものたち。-森にて-」

2016.09.10

小林俊哉M
NUMERO DEUX NEWS 16049札幌のアートなニュース。

語らず、語ることを感じること。
アートで「森」を表現すること。

身近に植物があると、気分がいい。森を歩くと、もっと気分がいい。それはなぜだろう?それは、人間の単なる思い込みなのか。植物には実際にそんな力があるのか。僕はそれについて、理論的、客観的説明はできない。そこを追求しようとも思わない。ただ、森に対して気分がいい、それは森との交流ではないか、という「感じ方」を大事にしようと思っている。

森は動くことも、話すこともできない。しかし、はるか昔から、わたしたちのすでのそばにいた。一緒に生活していたのだ。その事実は間違いのないものだ。

外界の刺激・印象を受けいれる能力。物を感じとる能力、それを感受性という。僕はそれは極めて大切な人間の機能だと思っている。そして、感受性は生きているうえで、ずっと育むべきものだと思う。それは、子供のころだけの話ではない。

小林俊哉は1959年北海道生まれ。1983年から作家活動をはじめる。現在は東京・ドイツ・スイスを中心に活躍。作風は、植物をモチーフにした平面作品。ほか、草花の写真を使用したインスタレーション作品も発表している。その活動はギャラリー展示だけではない。2007年にはハンブルグ動物公園駅構内に縦2.4m長さ14mの作品を設置。2011年は足利日本赤十字病院、2012年パレスホテル東京、札幌天使病院等でアートプロジェクトをおこなっている。

 本展示の魅力は、森を単に「鑑賞物」として捉えたものではない。人間と共存する「森」というひとつのキャラクターをテーマにした作品が展示されている。それは優しく、強く、生きている印象を受ける。作品は森に対する写実的な表現ではないが、森の魅力がアートとして、表現化されていて、本物の森がそばにあるような存在感がある。これはアートの役割として、小林俊哉の作品の素晴らしさであり、病院やホテルなどのパブリックの空間に設置される理由もよくわかる。なぜなら、建築の中に「森」を入れることができるからだろう。本展示で魅力を感じて欲しい。

 

Text by
アート・メディアライター 石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)

「小林俊哉個展「何も語らざるものたち。-森にて-」
会期:2016年9月2日(金)~30日(金)11:00~19:00(月曜休み)
※9月19日は祝日のため営業、20日・21日は休廊
会場:クラークギャラリー+SHIFT(南3条東2)

 

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NEWS No.16048「500m美術館vol.19 いつかきたみち、こどもみち『横山裕一/アイスランド』」

2016.08.31

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NUMERO DEUX NEWS 16048 札幌のアートなニュース。

コマを読ませる、心地よいリズム。
漫画を漫画と意識せず、描くのは実に難しいのではないか。

僕は「漫画」というのは「映画」と同じくらい「総合芸術」だと思っている。ストーリーがあって、ビジュアルがある。そこから割り出されるコマ割りも奥が深い。漫画は実に芸術的であり、同時にグラフィックデザインのように理論的でもある。ただ、理論または流行があることによって、もっとたくさんあるべき漫画のバリエーションが、意外に狭くなっているような気がする。それは、洗練なのか効率なのか模範なのか僕にはわからない。ただ、漫画のオリジナイティというのは、まだまだ開拓の余地があるのではないか?と最近思いつく出来事があった。それは、横山裕一の作品に出会ったことである。そこにはショックがあった。

横山裕一は1967 宮崎県生・埼玉県在住。武蔵野美術大学油絵科卒。「500m美術館vol.19 いつかきたみち、こどもみち」に出品作品している。それは『横山裕一/アイスランド』。展示では、漫画作品の一部がブローアップされている。一般的な漫画作品だと、こうした展示方法はなかなか成り立たない。なぜなら、そこで展示された中で話が完結する訳でもないし、仮に表現技法としてユニークな部分を抽出できたとしても、それは漫画の宣伝くらいの機能しかもたないのではないか、と思うのだ。これは多分、合っていると思う。

ところが、展示された横山裕一の作品は違う。なんといえばいいか。抽象的な言い方になるけど、作品のコマの中には、僕の知らない「リズム」があるのだ。それを感じ取ることによって、展示作品として成立していると思う。未知の体験なのだけど、どこか心地よい。だから、このリズムに乗れば気持ちよく読ませくれる。実は、漫画を漫画と意識せずに描くのはとても難しいことだと思う。でも、横山裕一はそれに自然な形でトライしているような印象を受ける。アートとしての漫画について、非常に可能性を感じた。

Text by
アート・メディアライター 石 川 伸 一 (NUMERO DEUX)

500m美術館vol.19 いつかきたみち、こどもみち
『横山裕一/アイスランド』

会期 : 2016年7月9日(土)~2016年10月12日(水)
会場:札幌大通地下ギャラリー 500m美術館

 

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