洋画★シネフィル・イマジカ
「殺しのテクニック」(1966)
孤独はみんな嫌いなハズなのに孤独な主人公がなぜ望まれるのだろうか?
本作は「引退を決意した孤独な殺し屋(狙撃者)の出来事」と書いて、どこかで観たような…と思ったら先日観た「ハイパーウェポン/最終狙撃者」と似てますね。
これは真似というより、ひとつのパターンでしょう。その「よくある」設定をどういった魅力ある作品にまとめていくのか監督の手腕が観るのも楽しみ。
「ハイパー…」の印象としては実に全編を貫いてストイックな形でまとめ上げた。この作品パターンはストイックな主人公というのが決り事なんだけど、それを作品全体のすべてにおいて徹底して純度の高い形でまとめあげた。
ロマンスや、主人公が遊ぶようなシーンもない。サントラもかなり抑えていて「音のない音」の選出がストイックさに拍車をかける。その中で狙撃の時に流れるブライアン・イーノによる冷たく乾いたシンセ・サウンドが最高にカッコ良かった。
僕はこのまとめ方は凄く好きだけど、主人公に感情移入できないと流れがとても平坦で地味すぎる印象を受けるかもしれない。 作品の世界観がすべてにおいてストイック。主人公も敵も、風景も。そしてラストシーンすらも。世界観にハマれないと退屈だという感想が出てもしかたがない。
それに比べると、本作「殺しのテクニック」は一般的でバランスがとれている。主人公の性格設定は「ハイパー…」とほぼ同じなんだけど、兄の仇という動機づけや、血気盛んな若い相棒といきずりのヒロインの存在があり、標的も整形手術をして居所不明というミステリアスな仕掛けもある。サントラも全面で出ていてジャジーなサウンドがシーンを盛り上げていく。
つまり、本作では主人公のストイックさと対照的に周辺をドタバタさせて、いいコントラストを出している。同時に娯楽作品として一般的にわかりやすく、退屈しない仕掛けちりばめている。
似たような設定の作品でも監督によって、いろいろな演出の仕方があって、雰囲気の違う作品になるのは興味深いし、その違いを観る側として考えるのは楽しいひとときです。
人は自分が思ってるより孤独ではない。でも、常に孤独を感じる。孤独を嫌う。でも、同時にあらゆるわずらわしさから開放された孤独に憧れもある。そのためスクリーンの主人公に理想の孤独を求めるのだろうか。