上から目線
上から目線、という言葉はいつごろから、よく使われるのかな。自分個人の資質には、上から要素がないので、普段のリアルな対人コミニュケーションの中で上から目線、なんてとんでもない!といいたいけど、時にはきっと振りかざすのだろう。ひどく暴力的に。
社会に対しても心の中で、いつのまにかひどい上から目線になることがある。それは「客観性」なんて隠れみのに包まれて始末が悪い。 人間は社会に対して客観性を持つことはできるだろうか?
ノーマルに考えれば人間は自分の利益から自分の属する組織の利益、親族の利益、友人の利益というファクターで動いていくと思う。そう考えると、そこでが振りかざす客観性は、客観性のダミーのような気がする。違うか、 客観性は可能だが維持するのは難しいということか。いや、第三者の立場で客観性の発揮ができるが、そこにはなんら権限が付加しないので、無力だということか。ん?上から目線の話はどうなったのか、それは収束させるために僕は「下から目線」というのを提唱したい。世の中をいつも下から見ていく。当然、常に上目遣い。解決しました。
モエレ沼公園のガラスもピラミットの建物の屋上。実は初めて行きました。モエレ沼公園には結構訪れていると思うけど、この屋上は行ってませんでした。今回、あらためてガラスのピラミッドのある建物をいろいろ見ようと思って、1Fのスペースや、売店、2Fに上がって展示スペース、3Fのイサム・ノグチの常設展等を見ました。
そして、そして最後に屋上な訳です。展望はこの場所が「沼」だということを再認識させてくれます。「ああ、よく沼にこんな素晴らしい公園を作ったなぁ」ということを感じさせる。このピュアな感動を上からとか、下からなんてことを考えずに大切にしたい。