光景は不光景または非光景
車の窓からの風景は、同じ場所でも異なるイメージを受ける。歩道から見る、車道から見るという違いがある。また、車では座っている訳だから、視線が歩きより下になる。
わかっているようで、わかってはいない近所のおなじみの光景。「ありふれた、つまらない光景だ」と早めの結論を出すのも悪くない。割り切りから、次のステップにいくのも未知の可能性はあるかと思う。
でも、もう理解しきったと思う光景に、再び興味を持つのもひとつの方法ではないか。
気持としては、別の場所に行ってほうが、自分にとっての進歩も感じられる。でも、本当にそれは進歩だろうか? ひらたくいえば、物理的な場所を移動しただけで「自分のなにかが変る」ならば世の中に苦労はないのではないか。一番、危険なのは「自分は変った」という錯覚だといえる。それは悲劇だといえる。進歩と気分転換は本質が違うのだ。
自分のごく身近な光景から、何かを考える。そこから生まれるクリエイティブを僕は大事にしたい。そんなことを、車窓から見る「違った光景」に感じていた。