わすれがち。
忘れがちなことなんだけど、コミニュケーションというのは常に客観的なものではないといけないし、そう考えないといけない。主観でコミニュケーションを語るの無意味だし、逆に弊害がある。
無意味なものになんらかの美意識を見いだすのは好きなんだけど、コミニュケーションについてはそれはNGとしたい。
なぜなら、無意味なのになぜか意味性を感じてしまうからなのである。「伝えたかったのに、できなかった」というのはある種のロマンチズムを感じさせるが、そこを深読みしてはいけない。あるのは単なるコミニュケーションの失敗であって、ほかに語るべき要素はないし、あってはならない。
いい変えてみようパソコンでいるなら「ネットワークの接続に失敗しました」ということなのである。それについてなにか語れることはあるだろうか?なにもない。あるとしたら単なる時間のロスだけである。得られる情報は0。与える情報も0。その時点で考えるべきは、再びコミニュケーションを試みて、その成果を出すことなのである。
失敗したコミニュケーションを取り返すのはツライ作業だし、逃げたくなるし、逃げることも可能だ。でも、そこをなんとか前に進むことを考えていきたい。